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第二の故郷を離れる(最終回)


皆さまこんにちは。入園・入学・入社の春がやってきました!今このコラムを書いているのはちょうど日本中の桜が見ごろを迎えている時期で、毎日桜のある道を通るとワクワクしています。今月もコラムにお立ち寄りいただきましてありがとうございます。

さて、アメリカに来て12年目、私はついにこの国を去る決心をしました。前回書いた様々な理由で、せっかく与えられていた恵まれた環境でしたが、私の両親からも「そろそろ帰ってきてはどうか?」と言われていたこともあり、最後は自分がこれからどうしたいのかをよく考えて決めたのでした。

そうと決まれば「関係各所」に連絡しなければなりません。まず伝えなければならなかったのは私の上司にあたるピアノ科の主任教授と音楽学部長でした。私のポジションが空いたら公募してまた全米から応募者を募らなければならないからです。私も自分が大学院生だった時から後任者1人を決めるためには長いプロセスがあることを何回も見てきたのでやはり申し訳ない気持ちはありました。でも辞職の意志を伝えるのが遅くなればなるほど学校への負担がかかりますので、決めたのならできるだけ早く伝えなければならないと思いました。

お二人には「日本の両親が私の帰国を強く望んでいる」ということを中心に伝えました。もちろん残念がってくれましたが、そこは私の決心を尊重してくれて送り出してくれることになりました。

続いて、これまで3年間何度も励まし合って一緒に働いてきた同期の先生たちへの報告です。ソプラノのMaureenは本当に何回も私を引き止めようとしてくれました。チェロのBrianも「一緒に演奏するピアニストが足りなくなるじゃないか!」と言ってくれました。他にも演劇の先生、グラフィックデザインの先生、健康・栄養学の先生など音楽以外の学部の同僚たちが「本当に日本に帰るの?」と何度も言ってくれましたが、みんな最後には私の状況をわかってくれました。

関係各所への報告を続けながら、引っ越しの手続きもしなければなりませんでした。アパート内のソファやテーブルといった家具は地域に広告を出してガレージセールで売りました。これは当時売りに出した物と売れた物などをまとめた表です。結構いろんなものを持っていて「こんなものが売れたんだ!」などと懐かしく思い出します。



絶対に日本に持って帰らなければならなかったのは楽譜や本でした。これらを国際郵便で送るには中身に保険をかけるためにその価値を書いて提出しなければなりませんでした。そこで所有する楽譜や本の1冊1冊の値段を調べて表にまとめ、合計金額を計算したのですが、これがとても大変でした。。。今その金額を書いた表を見直すと、段ボール6箱分、値段は100万円近くなっていました。

それから、処分しなければならないのはアップライトピアノでした。フロリダで楽器店の抽選会で当たって手に入れた小さなピアノ(詳しくはこちら→ https://eigodepiano.com/christmas-present/)はどうしようかと悩んだ末、同僚のMaureenに譲ることにしました。もともと無料で手に入れたので、譲る時も無料で譲りました。Maureenも今はTruman State Universityでは教えていないのですがピアノはどうなったかな?と時々思い出します。

あと、処分に時間がかかったのは車でした。まだ3年弱しか乗っていない私の車は地域に広告を出しましたがなかなか売れませんでした。おそらくボロボロの中古車で安い車だったら欲しい学生はたくさんいたと思いますが、まだ新しくそれなりの値段(学生だと手が出にくい値段)でしたので結局正規のディーラーに引き取ってもらうしかありませんでした。車の広告はこんなのを出していました。


いろいろ処分して最終的に持ち帰ったのは楽譜や授業のノート類、CD、服、少しのキッチン用品ぐらいでした。でも私は12年分の経験と思い出を持って帰りました。冒頭の写真は私が教えていた学生さんたちの一部です。久しぶりに見つけた写真で、見ていたら当時のことを思い出しました。

振り返ればまだアメリカへの憧れが100%でやって来た12年前は、見るもの聞くもの全てが「わぁすごい!めっちゃ楽しい!めっちゃ大きい!」と感激の連続で、アメリカにあるものはなんでも日本より良いもの、良い事に見えたものでした。

しかし何年かたってだんだん言葉の壁が低くなり、本音で話をしてくれるアメリカ人と会話ができるようになると、アメリカの問題点や日本のほうが優れていることが見えるようになってきたのでした。そして最終的にはどちらの国も同じバランスで好きになれました。

アメリカを離れた35歳の時、私は人生の約3分の2を日本で、3分の1をアメリカで過ごしたことになるのですが、アメリカでの12年間はそれまでの日本で過ごした期間と同じぐらいの濃さだったと思います。簡単な会話しかできない状態でやってきた当初は大学の学生寮に入れてもらい、食事もミールプランで作ってもらったものを食べるといういわば赤ん坊の状態でしたが、その後自分で借りたアパートで自炊するようになり、勉強してだんだん上の学位を目指して進級したり受験したりしたのは子どもから大人になるまでの時期に似ていて、最後は就職して社会人になる経験までさせてもらいました。アメリカでもやっと大人になれた、という感じです。

その間、本当にたくさんの人に出会い、助けられて生活させてもらいました。あちこちに引っ越したことでその地域の特性を知ることもでき、今でも私にとって「第二の父や母」、友達が各地に散らばっています。そんな私の経験は全てピアノがつないでくれたご縁です。小さい頃ピアノの練習なんてまったく好きではありませんでしたが辞めなくてよかったと今でも思います。

私はアメリカにいた間、人生で一番たくさんピアノを練習しました。現在は演奏よりも指導や子育てに追われていますが、また子育てのピークが過ぎたら演奏に時間を使いたいなと思っています。

2020年7月から始まったこのコラムは今回で最後となります。私が昔のことを振り返って書いた日記のようなコラムでしたが、少しでもアメリカでの学生生活や日常生活について面白かったと思っていただけていたら幸いです。ここまでお読みいただき、読者の皆さまには本当に感謝申し上げます。ありがとうございました。またどこかでお会いできる日を楽しみにしています!

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