Learning
北に国からこんにちは!
早いものでこのコラムが始まって2年が経ちました!
始めた頃はどうなることかとドキドキしたものですが、みなさんいつも私のつぶやきに付き合ってくださってありがとうございます。感謝感謝。
これからもマイペースでトントンと、みなさんの役に立ちそうなこと、日本じゃあり得ないことなど書いていきたいと思いますので、末長くどうぞよろしくお願いします。
さてさてカナダは10月に入って朝晩は寒いくらいになってきました。
日本もようやく気温も下がって秋らしくなってきた頃でしょうか?
昼間はまだまだ暖かいせいかまだ紅葉は始まっていませんが、このコラムが掲載される週末は感謝祭で、町中にかぼちゃが溢れています!
早い子は夏休みの始まる前から、ハロウィンの仮装で何になるかでワクワクしているので、もう準備満タンでしょうね!不思議なことに私の生徒さんはあまりハロウィンテーマの曲に興味がないようで、全くリクエストが来ません。私の方から「どう?」と打診して「やってみる」という生徒さんに渡したことはありますが、みんな不気味な感じはあまり好きではないようで、「やっぱりやめる」になっちゃうんです。
日本ではどれくらいのメジャーなんでしょうか?
オンラインで楽譜を公開されているサイトは沢山見つかるので、ここの数曲載せておきますね!よかったらどうぞお試しください。
https://www.chrissyricker.com/uploads/5/7/9/6/57961517/mahler_symphony_1_theme.pdf
https://www.chrissyricker.com/uploads/5/7/9/6/57961517/in_the_hall_of_the_mountain_king.pdf
https://www.chrissyricker.com/uploads/5/7/9/6/57961517/candy_corn_boogie.pd
https://www.chrissyricker.com/uploads/5/7/9/6/57961517/handel_sarabande_in_dm.pdf
さて、最近色々ありまして、というよりここ1年半ほど自分自身のために勉強を再開したのですが、それがいろいろな変化を私に運んできています。
一番驚いたのは、自分の演奏が変わることで教え方が一緒に変わってしまったことです!
勿論私自身の元々持っているアプローチのボトムラインが変わったというわけではないのですがね。
自分の演奏のため、だと純粋に思っていたので、これは瓢箪から駒的な驚きでした。
今もまだまだ進化中ですので、最終的にどこへ行き着くのかは見えませんが、そんな「学ぶ」ということの面白さを少しずつご紹介していこうと思います。
私は元々「知らない、未知なこと」にワクワクする性質で、それを知りたいという好奇心が学びのベースにあります。これは子供の時から、ですね。だから自分が興味あることを「学ぶ」のはいつも楽しい、が普通なんです。
子供の頃のお稽古事で楽しくなかったり好きじゃないことは、だから長続きしませんでした。これって誰だって、いつだって同じだと思うんですよね。何かを学ぶということは、「ああなりたい」とか「あれができたらいいな」とかいうゴールのような、憧れのようなものが先にあって、そこに到達したいから始めると思うのですが、それと同時にそこに到達するにはある程度の時間がかかるというのも、みんな何気なくわかっていたような気がするのです。
それがここ最近急速に変わったな、と肌で感じています。
ご両親に耳を引っ張って連れてこられちゃうお子さんが長く続かないのは、自然の摂理でもう仕方がないことなのでここでは不問に付しますが、そうではなく「うん、やりたい。これが弾きたい。」と言ってやってくる生徒さんたちの諦めの良さ。これに最近絶句しているのが正直なところなのです。
何故に、そんなに簡単に諦めるのか?
と始めは思いましたが、それが今は
何故に一瞬で全てができるようにならないといけないと思うのか?
になってしまいました。
これはなかなかにややこしい問題です。
何せ時代はテクノロジーが生活の隅々にまで入り尽くしている昨今、調べ物は指先をチャチャっと動かせば答えが提供されます。
このインスタントラーメンも顔負けのインスタントな世界で、一年後とかってきっと永遠なんだろうな、と。
Instant gratification
同じことで頭を悩ませている先生は山ほどいて、そこで出てくる言葉がこれ。
つまり一瞬の、その時だけの満足感、充足感。
それの方が大事、というのではなく、きっとそういう毎日に慣れてしまって、一歩一歩積み上げることの意味を経験する間がないんでしょうね。
これに輪をかけるのが、異様な競争社会と保護者さん達の過剰な期待。
今ほど子供が子供でいられる時間の短い時代はなかったのではないかと最近思っています。
これは子供が労働力だった時代も入れて、です。
それは生き抜くために子供も労働力だった、という状況と、物心つく前に競争社会へ放り込まれる現代の子ども、の違いです。
生き抜くためならば、人は本能を発揮しますが、その必要がなければ子供は熾烈な「比較社会」で人生をスタートさせることになる、ということなんです。
これはあまり知られていないことかもしれませんが、北米は熾烈な学歴社会です。そして移民の国でもある。将来の生活を安定させるために始まる競争はパンデミックでの遅れを取り戻すことと重なってすごいことになっています。
両手の10本の指を使うピアノが、自然に脳を活性させるのは何も新しい話題ではありませんが、それだけでなくピアノという楽器は一人でリズム、メロディー、ハーモニーをやってしまえる、実はすごい楽器でもあるのです。つまりこれを一人でできるようになる技術は洗練されていて、それがピアノを弾かない人と比べて他のことで能力を発揮することは大いにあり得ることですが、それは「ピアノを習った」=「頭が良くなった」では決してないのです。
この方程式が過大広告の域にまで達している現状を私はこの冬から夏まで教えた0歳児から幼稚園児までのグループクラスで体験し、胸が痛む思いをしました。
3歳児が何かを「学んだ」ことを期待される現実って?
勿論3歳児で「学ぶ」のが楽しいお子さんがいないわけではないでしょう。
でも大抵のこの年頃の子供たちは、遊ぶことが仕事なんです。
3歳でアルファベットが読めて文章が読めることが、将来の一体何になるのか?これをそのままそっくり音符が読めることに当てはめれば、ピアノレッスンになります。
生まれた瞬間から、学ぶことを期待される時代といったら辛口すぎかもしれませんが、人間にはきちんと順序だった発達の段階がきちんとあらかじめセットされています。子供の「理論だった複雑な思考する」能力は、ある程度の歳になるまで始まりません。それを力づくで前進させるのは百害あって一理なしという事実に気付くことは、子供の佳き将来のためには何より大切なことだと多くの大人が知る必要がありますね。
学ぶということは成長するということと同義です。
そこでは「care」「time」「conditions 」が何より大切です。
音楽教育が過大広告の犠牲になり、その同調圧力に屈しないためにも、生徒さんの「絶対嫌!」にはとことん付き合っていこうと、心を新たにする日々です。
Happy Halloween!